その魯肉飯屋の親父は俺に向かって言った。
「おい、日本人。シケたツラしてるんじゃねえ。こっちまで気が重くなるだろうが」
銀色のスチールテーブルに肘をついて街を眺めていた俺は、その声に振り向いた。
ハゲヅラで、チョビヒゲを生やした親父が、こっちを睨み付けている。
あたりには隣の屋台から発せられる臭豆腐の臭いが微かに漂っている。
最初はその匂いが苦手だったけど、今じゃ慣れっこだった。
俺は親父に向かって言い返す。
「うるせえんだよ。どんなツラしようが俺の勝手だろ」
それを聞いた親父はふん、とつまらなそうに笑い、鍋に目を移した。
「ふん。俺の店が不味いみてえに見えるじゃねえか」
「旨いも不味いも、そもそもこんな店近所の常連しか来ねえだろ」
実際にそうなのかは、俺にはわからなかったが、そうとしか思えない。
台北の外れ、淡水河の反対側。
駅から遠く離れたこの界隈は古くからの商店街だった。
なぜここで商売を始めようと思ったのか不思議な、汚いゲストハウスの一階に、その店はあった。
こんなところに泊まろうって物好きは俺くらいのもんだ。
「だいたい遅えんだよ。俺の魯肉飯はどうしたんだよ」
親父は鍋の中をレードルでかき混ぜていた。
鍋の中では煮込まれて形を失った肉が、ぐつぐつと音を立てている。
使い込まれた鍋は茶色く変色していて、とても衛生的とは思えない。
それでも、あたりには醤油と八角それに揚げた玉葱の香ばしい匂いが立ち込め、食欲をそそる。
俺はこれ以下はないくらい最低な気分だったが、腹が減るものは仕方がない。
親父は目を細め、仙人のような表情を浮かべながら言った。
「今やってるよ。黙って待ってろ」
俺は舌打ちをした。
「そんなもん飯よそって鍋の肉かけるだけじゃねえか」
親父はもう一度馬鹿にしたように笑い、言った。
「ふん、素人が。いいか、日本人。俺は40年この仕事やってんだ」
またこの話だ。
昨日は50年って言ってなかったか?
「よくまあ、こんなシケた店を」
親父はニヤッと笑って言った。
「そのシケた店でシケた面してるお前よりマシだぜ。悩みがあるなら聞いてやろうか」
冗談じゃねえ。
応援しているサッカーチームがボロ負けして落ち込んでます、なんて言えるかよ。
さっきゲストハウスの部屋でなんとか試合を見ようと、必死になってストリーミング中継を探してた自分がアホみたいに思い出される。
鍋を睨み付けていた親父が、急に鋭い動きをみせる。
茶碗に飯をつぐと、それにレードルで肉をかけて俺の前に置いた。
「ほらよ。マオ様特製の魯肉飯だ。食え、日本人」
俺は悪態をついた。
「なにが特製だ。勿体ぶりやがって」
親父はまわりのテーブルを拭きながら答えた。
「なんにでもな、タイミングってもんがあるんだよ」
タイミングね。
俺は箸のビニール袋を破いた。
ふと、親父がこちらを向いた。
「おい、日本人。よく聞けよ。人生はな、良いことと悪いことの繰り返しだ」
親父はぶっきらぼうに続けた。
「なんか悪い事があったって別に絶望する必要はねえ。いい時は必ず来る」
俺は呆気にとられた。
この親父、俺を励まそうとしてんのか?
「だからシケたツラは止めろ。商売の邪魔だからな」
親父は優しさの欠片もない表情でつまらなそうに言った。
俺はふん、と笑った。
「ずいぶん達観したことを言うじゃねえか」
そう言うと、親父は、あの仙人みたいなツラで答えた。
「毎日鍋ん中を睨んでなきゃ見えねえこともあるんだよ。お前もやってみるか?」
俺は反射的に答えた。
「冗談だろ?」
それを聞くと、親父はこれ以上ないぐらいのドヤ顔を見せた。
「俺もそう言ったぜ。親父から商売継げって言われた時にはな」
そう言ってニヤっと笑い、今度は真顔になって続けた。
「それはそうと、さっさと食え。さっと食ってさっと出て行く。こいつはそういう食い物だ」
それだけ言うと、親父は背を向けて煙草に火を点けた。
俺は目の前の魯肉飯を見た。
ご飯の上は茶色く煮込まれた肉の欠片で埋めつくされ、油で艶やかに光っている。
俺は一度だけ小さく息を吸うと、一気にそれを掻き込んだ。
口には出さなかったが、そもそも最初から知っていた。
確かにこいつは台湾一旨い。
ってことはたぶん、世界一ってことだ。
次は関根さんです。